本当に大げさな言い方になり、少し恥ずかしい気もするのですが、ヨーガに深く、一所懸命に取り組んでゆこうと思っている反面、はたして、自分の心がそれに相応しいのかどうか…?「慈しみの心」を、自分は常に持てているのかどうか…?よく自問自答してしまいます。
「いつでも、どんな人にでも、優しい気持ちと笑顔を持って、それを言葉や行動にできれば…」とは思っているつもりなのですが、なかなかそんな理想のゴールには、到達できずにいる自分を見つけてしまいます。そして、子供時代から、自分の心は変わり映えはしてないなあ…と成長のなさを感じてしまいます。
そもそも“愛”とは何か?と自分に尋ねられても、うまく言葉で説明することはできません。だからといって、自分が“愛”をまったく知らない…というわけではありませんし、もちろん、“愛”は、とても大事なものであることもわかっています。
そこで、あらためて、“愛”について、ヨーガの教えは、どう導いているかを調べてみようと思います。
ヨーガを始めとするインドの聖典の教えは、常に“愛”の対象は、神様です。そして、“神様”と“愛”は、そもそも同じものであり、愛は、“大いなる存在、意識”であることが説かれます。
言い換えれば、愛は、心を超えたものですし、それは、私達の心を奥底から照らしているものなのですね。
ですから、愛とは何か?と言葉で説明できないのも当然なこと!
そして、愛に満ちた行動とは、実はもっと自然なものであり、それは例えば、ふと目の前で転びそうになっている人をみた時、自然に手を差し出ている…というようなことであるのでしょう。
つまり、愛の力による行動は、あれこれ考えるというものではなく、本来、自発的なものだったのです。
その本当の愛に触れた時、心は、安らぎと幸福感を感じます。そして、この心地よさを私達は、すでに知っており、ずっと記憶の中に持っているのです。
さらに、忘れてはいけないことがあります。
それは、「神様は、いつもそばにいる」ということです。
たとえその存在を信じていない人でも、気持ちがこめられていないお祈りであっても、神様は、そんなことに関係なく恩恵を注いでいます。
それは、「神様の片思い!」といっても言い状態かもしれませんね。
しかし、私達が、もし人間として崇高な心の成長を望み、それを実感したいのであれば、やはり片思いのままにしておかずに、神様へ信仰という態度で、愛をもって向かいあうべきだと説かれます。
例えば、ヴィヴェーカナンダ師は、信仰における愛の三角形(※この三角形とは、ピラミッドのようなとても強固な形の比喩)として、神様を思う時には、盲目的な信仰ではなく、次の3点を重要ポイントとして気をつけるべきだと教えています。
1. 神様への愛、信仰は、恐怖がもとになっていてはいけない。―神様へ信仰を怠ると罰を受ける…という気持ちは拭い去るべき―
2. 神様へ愛、信仰は、どの神様が一番良いか…などと、比べたり、競い合わせるような対象としてみてはいけない。―神様に違いがあるなどと思っているのは、人間の心が勘ぐっているだけで、事実とは異なる。自身の信仰する神様へ一途であればそれで充分―
3. 神様への愛、信仰は、取引であってはならない。―お供えものはすべきであるが、だからといって、商売のような見返りを期待したり、ギブ アンド テイクのような考えを持ち込んではならない。―
このような心がけが、サットヴァな状態であり、ここにおいて神様の恩恵、すなわち愛が感じとりやすくなるのですね。
でもここで、しっかり識別すべきは、神様を信じよう、助けをもとめよう、愛していこう…というものは、自発的におきてくるものであり、待つしかないもの!ということです。
そして、愛の三角形のような教訓は、自発的に起きた愛を心が信じ続けてゆくときに、始めて重要となってくるものだということです。
神様への愛に信頼がおける時、この世界の二極の対立までもが、神様の力、世界の仕組みそのものであることに気づきます。そして、本当に色々な人がいて、それぞれに思いや言動があり、違ったり、共感できたり…と様々あるのですが、その原動力は、やはり神様なのです…。以前にも書いたハワイに伝わる素敵な言葉も、これに同じだったことを思い出しますね。
さて、このように、バクティ ヨーガで説かれた神様への愛を、「よりよい自分、よりよい人間関係をつくるため」に、短絡的に生かそうとするのは、あまりにも無理があるかもしれません。この世界の全てに対し、無条件の愛、恐怖のない思いを持つことは、あまりにも崇高すぎると感じますし、今の自分は、聖者のような悟りに満ちてはいないことは、自分自身でよく知っています…。
しかし、私達は、心が愛で満たされている時には、何の不安もなく、幸福で平和な状態であることも知っています。
そんな心の時には、余裕も自信もあり、難しい頼まれごとであっても気軽に引き受けてあげられるし、多少いやなことがあっても、あるいは人間関係に誤解があっても、何事もなかったように流してゆけるものですよね。
愛は、自発的にうまれてくるものです。それ自体は、育むものはできません、それどころか、常に愛の力は注がれているのに、それに気が付けずにいるだけかもしれません。
心は、それほどに繊細なものであり、混乱しやすいものなのです。
ですから殺生や嘘をつくことを重ねれば、心はどんどん閉鎖的になり、否定的な思念にみちてしまい、愛の力は入り込む隙間もなくなってしまうのでしょう。
また、これまでにもあげたように、私達が自然にあふれてくるはずの愛を勘違いして、まず行動や言葉から、愛の形を作ってしまおうとするのも、やはりどこか不自然なものです。愛に満ちた自分づくりは、時折、人からこう見られたい、自分はこうすべきだ!という気持ちだけが先走った、地に足がついていない状態になってしまうこともありますから、焦ってはいけませんし、その必要もありません。
自分が心にしてあげられることは、愛の形づくりではなく、否定的な思念や言動に気づき、意識化した時点で、それをやめてしまったり、囚われなくするようにしかないのだろうとあらためて感じます。すると、バクティ ヨーガでの話だけでなく、同様にして、八支則のヨーガの禁戒であっても、実は、愛とは切ってもきれないものだった!という理解にもつながってゆきます。
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