「一年の計は、元旦にあり!」とよく言われますが、これは、戦国時代の大名、毛利元就の言葉に由来するそうですね。
本来の意味は、一年の計画を元旦に立てることではなく、「何事も始めが肝心」ということのようです。
元旦から朝寝坊して仕事をお粗末にしてしまうようでは、先がおもいやられる…という教訓は、「始めの一歩を正しく、力強く踏み出そう!」という厳しい時代だからこその意気込みを表すものなのですね。
さて、話題は少し変わるのですが、
ある方から「先の年末に20年振りに会った友人がこんな言葉を投げかけた…」という話をお聞きしました。
その方は、若いころに飲食店を出し、なんとかここまで頑張り小さいながらも店を維持してきたそうです。
しかし、そんな彼が「振り返ってみれば30年ほど、毎日、調理場に立ち続け、他の世界を体験することもなく、狭い世界で生きてきた自分は、人生をエンジョイしているみんなが羨ましい」と、ふと弱音を漏らしたそうなのです。
「店を続けられたのは、誰にも真似できないし、家族も養って、趣味も楽しめているのは、お前の方こそ凄いじゃないか!」
友人たちはこぞって励ましていたそうですが、どことなく笑顔もぎこちなく、
「なんとなく自分の人生に張り合いがないように思えてしまう…」と言っていたそうです。
もちろん、久しぶりに会った旧友の食事会は、ここで話は終わり、何事もなかったように、楽しく昔ばなしに花を咲かせたそうですが、私には、ここで思い当たる話がありました。
それは、「フランクルに学ぶ」という斎藤啓一氏の本を思い浮かべたからです。フランクル(1905-1997)とは、第二次世界大戦時、ナチスの強制収容所で妻と二人の子供を殺され極限の状態の中にありながら、人々の行動や心理を観察し、人生の意味を自ら探っていった精神科医です。
フランクルは、様々な名言を世に残した方です。彼は、絶望の中にも、苦悩や死にも、人生の意味があることを深く見出し、生きる希望の光を見つけており、その言葉は多くの人々の支えになっています。
「未来には、あなたによって生み出される何かが待っている。人生は、あなたがそれを生み出すことを期待しているのだ。
もしも、あなたがいなくなれば、その何かも生まれることなく消えてしまうのである。人生は、あなたがそれを生み出すのを待っているのだ!」
彼の言葉は、なんと希望に満ちていることでしょう!
先の旧友達の話のように、ふと自分の人生を振り返った時、
「これで良かったのか?あの時、ああだったら、今どうなっているだろう…?」
誰しもが、そんなふうに思うことはあるでしょう。
もちろん、日々の生活を生きることに忙しい私達は、このような疑問をすっかり忘れて、仕事に取り組んでゆくのですが、ここではじっくりとフランクルの言葉を借りて考えてみたいと思います。
私達は、先のような話を聞き励ます時に、なんとか過去を正当化しようと考えます。しかし、人生を受け入れるとは、そうではなく、
「今のなんでもない仕事も、未来の何かを生んでいる!」
という事実に気づくことであるとフランクルは、教えてくれています。
未来の何か…とはいっても、具体的に、どこかの誰かを喜ばせるというものではないかも知れません。でも、おいしい料理は、笑顔や安心を生み出す最高の材料なのですから、自分の作ったものが、楽しんでもらえるイメージはどんどん膨らんでゆくでしょう。
フランクルが示唆する人間力に、次のようなものがあります。
「我々は、相当の苦悩に耐えられる力をもっているが、自らの存在の意味、人生の意味の喪失には、耐えられない。」
つまり、今、ここに生きてる私には、その存在に意味があるということです。そして、心の底からその確信が湧き上がれば、それが、生きている私でなく、たとえこの世を去り、姿がなくなったとしても、思いえがくことができさえすれば、その存在に意味があるというのです。
そして、意味があることを信じれば、人生に、そして運命にこの身を任せることもでき、全ては、きっとうまくいきます!
これが、“受け入れること”…なのですが、それは、簡単なようで難しいのですが、
しかしながら、ある時、自然に受容しているもの…でもあるようです。
きっとその秘訣は、”自分というものへ”変な力を入れないようにすることなのでしょうね。
そして、フランクルの言葉を考えながら、もう一つ気づいたことがあります。
それは、日本語の “はい” という言葉です。
ここで、みなさんに英語の授業の一コマを思い出してほしいのですが、
“Do not you mind~、~を気にしませんか?” と聞かれた時、
“Yes, I will~、いいえ、私は~”といったように、
英語で“Yes”なのに、日本語では“いいえ”と訳さなければならない場合がありますよね。
もともと、英語の “Yes” は、自分が、自分の行動を肯定する時に使います。
しかし、日本語の “はい” は、まず、相手の言葉が自分の気持ちにあっているかどうかが、問題になります。
つまり、日本語で “はい” という時には、“あなたの言っていることが正しい”とまず認めることであり、
相手の言うことが自分の考えや思いにそぐわない場合には、実は、非常に使いづらい言葉なのです。
ですから、もし、目の前に突き付けられた無理難題を “はい” と言って、受け入れなければならない場合は、まず、相手に合わせた態度を発し、自分の感情をさて置いてから、自らの行動や考えを合わせてゆくことになりがちです。
一方、英語の“Yes”は、相手が正しいと認めることよりも、自分が肯定的な態度をとるかどうかが最重要の言葉です。
つまり、よくよく考えてみれば、“はい” という言葉を短絡的に使えば、
相手の言葉が “正しい” か “誤り” か、を問題視することだけに留まりがちになることがわかります。
しかし、ここでいう”人生の意味、自分の存在の意味を受け入れる”ということは、
相手が自分より“正しい”か“誤りか”ではなく、それは、自分にとって
“意味があるのか”、“意味がないのか” を考えることです。
自分にとって意味があるからこそ、受け入れることができるのであり、
それは、自ずから、肯定的な行動や態度につながるものでしょう。
“正しい” か “誤り” か “好き” か “嫌い” かという二極ではなく、
“自分にとって意味があるのか”、“意味がないのか”という
言葉に置き換える知恵が、私達には、より求められるのです。
今年もこうして、ヨーガを通して、心身の健康をはじめ、深い話題や気づかないような些細なこともみなさんと一緒に考えてゆきたいと思います。
どうぞ、よろしくお願いします!ありがとうございました。
~神戸・三宮 ヨーガスクエアディーバ~
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